「働く」私たちは、生物多様性をどう捉え、何をすべきなのか?
企業に求められる生物多様性に関する取り組み。そこで働く私たちは、何を大切にして、何をすべきでしょうか。長年、生物多様性保全の仕組みづくりに尽力されてきた環境学者の田中章さんに伺いました。
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2030年までに生物多様性の損失を止め、回復軌道に乗せる──国際的な目標である「ネイチャーポジティブ」の実現に、企業はどう貢献していけばよいのでしょうか? また、生物多様性と経済活動、つまり私たちが「働く」こととの関係をどう捉えるべきなのでしょうか?
今回、この難しい問いに答えてくれたのは、生態学やランドスケープ・アーキテクチャー、緑地政策など、生物多様性保全にまつわるフィールドから政策までを一貫して研究してきた環境学者の田中章さん。生物多様性の国内外の潮流や現状などを交えながら、企業と、そこで働く私たちが生物多様性とどう向き合えばいいのか、そのヒントを語ってくれました。
- 田中 章/Akira Tanaka
- 環境学者、ランドスケープ・アーキテクト、博士(農学)東京大学。A Tree Company(エイ トゥリー カンパニー)代表。環境アセスメント学会常務理事、IAIA-Japan副代表、AIC国際実行委員代表。専門は、生態系復元・評価、環境アセスメント、生物多様性配慮型特殊緑化、環境教育。パシフィックコンサルタンツ株式会社、野村総合研究所、(社)海外環境協力センターを経て、22年間勤めた東京都市大学を2024年3月に定年退職。東京工業大学大学院、東京大学、東京農工大学で非常勤講師を務める傍ら、横浜市元町百段公園で市民との無農薬バラ栽培を続けている。AIC2024(アジア環境アセスメント会議)は、インドネシア・バリ島で2024年8月開催。静岡県静岡市清水区(旧:清水市)出身。
生物多様性への取り組みは遅れている?
──持続可能性の論議のなかで、二酸化炭素排出の抑制とともに語られることが多い生物多様性は、どのような流れで議論されてきたのでしょうか?
田中 地球の環境がこのままでは危ないと、世界182か国がブラジルのリオデジャネイロに集まって第1回地球サミットを開催したのが1992年、そこで地球温暖化への取り組みを定めた気候変動枠組条約とともに「生物多様性条約」が制定されました。
それ以降、世界が取り組むべき2大課題として「温暖化防止」と「生物多様性保全」が掲げられ、官民あげての取り組みが進められてきました。
──日本での取り組みは進んでいるのでしょうか。
田中 温暖化防止に比べ、生物多様性保全は遅れています。そもそも、一般の日本人が生物多様性という言葉の意味を学校で学ぶ機会はかなり限られています。高校の教科書に載っていても大学受験に出題されないからと、人類生存に関わる重大な事柄なのに避ける傾向があるようです。また、地球環境問題としての生物多様性の本質を教えられる先生をどうやって育成するのかも大きな課題です。
実は、日本の大学における環境分野の歴史は半世紀ほどしかありません。私が、学士課程で学んだ東京農工大学農学部環境保護学科は、国立大学で最初に設立された環境分野の学科で、環境庁(現:環境省)が設置された1971年の2年後に設立されました。一方、修士課程で学んだアメリカのミシガン大学の場合、1800年代には自然環境保全の学部が存在しており、この分野で最も長い歴史があります。
生物多様性への取り組みが進まないのはなぜ?
──日本では、二酸化炭素排出への取り組みに比べて、生物多様性への取り組みは遅れているようです。それは、生物多様性が理解しにくいからと聞きます。
田中 二酸化炭素排出による気候変動は、排出された二酸化炭素が温室効果ガスとなって地球をマントのように包む温暖化現象によって生じる。理解しやすいですよね。
一方、生物多様性は、例えば、地球生態系の頂点のヒトという生物種一種だけをとっても、その生態、ほかの生物や生物以外の環境との関係性といった最低限の生存必須条件を理解するのすらたいへんです。まして、ヒト以外の極めて多様な生物種に関してはご想像の通りでしょう。そもそも、理解するために必要な生態学などの基礎を、義務教育でも家庭でも学んでいないのに、社会でいきなり生物多様性といわれても理解しにくいのは当たり前です。
40年以上この分野の研究と教育に携わってきた私の経験では、子どもの頃から家族で釣りに行ったりキャンプに行ったりしてきた人や自然の豊かな環境で育った人は、直感的に理解できる傾向があるようです。若い頃の自然体験はとても重要だということですね。結局、急がば回れで、全世代に対しての教育を同時に続けていくことが大切です。
──長い期間をかけて進めていかないとならない状況なのですね。ただ、その期間も私たちは経済活動をしていくわけです。経済活動と生物多様性は両立するのでしょうか。
田中 まさに、それが1992年の地球サミットのテーマ、「持続可能な開発(以下、SD/Sustainable Development)」でした。人類生存の基盤である自然を消失させる最大の原因は開発です。開発とは、人類の幸福のために、住宅やビル、道路、農業用用地などをつくり、「地球の皮」である自然生態系を人工的なものに変える行為です。開発と自然はどちらも人類にとって必要なものですが、その両立は難しく、1992年以降、SDは人類共通の課題になったのです。
両立させためには、手始めに、最近その重要性が叫ばれるSDGsの「SD」が、この持続可能な開発に由来することを再確認することです。その上で、SD実現のための有効な政策や仕組みを導入することです。
──具体的にはどのようなことをすればいいのですか。
田中 開発による自然消失の影響を軽減する仕組みの一つに「生物多様性オフセット」があります。生物多様性オフセットとは、仮に30ヘクタールの保全すべき雑木林が太陽光パネル設置のために消失する場合、その地域の守るべき自然の質と量を現状維持させなければならない政策──「ノーネットロス」と呼ばれる政策を実現するための手段で、開発事業者は、開発地近隣に同様の雑木林を同等分、復元・保護を行わなければなりません。
アメリカで始まった、この「自然を無くすならその分を代償してから」という仕組みは、既に世界60か国以上で法的に義務化されています。
──日本でのルールはどうなっているのでしょうか。
田中 生物多様性オフセットもノーネットロスも法制化されていません。現状の日本では開発があれば自然は消失する一方です。その状況では、複数の生物多様性オフセットを広い土地でまとめて行う「生物多様性バンク」というビジネスモデルも起こりえません。多くの企業は、開発による自然の消失を何とかしたいと考えていますが、法制化されていないため足踏み状態になっています。
私は、そうこうしているうちに守るべき自然が消失してしまわないように、次善の策として、企業による自主的な「里山バンク」*¹の設置と参加を提唱しています。最初の里山バンクは、太陽光発電事業者の椿ファーム株式会社が東京センチュリー株式会社の支援を得て千葉県に設置した「椿TC里山バンク」です。企業は里山バンクを支援することで自然の損失を代償する、すなわちノーネットロスを実現できます。
また、環境省が、世界目標であるネイチャーポジティブや「30 by 30」達成に向けてOECM*²を進めています。OECMが開発事業の自然損失とそれを踏まえた生物多様性クレジット市場*³の形成に結びつけば、日本の生物多様性保全は一挙に加速するでしょう。
- *¹ 『里山のオーバーユースとアンダーユース問題を解決する”SATOYAMAバンキング”』(環境自治体白書2010年版)
- *² 「Other effective area-based conservation measures」の略。国立公園などの公的な保護地域以外で生物多様性保全がなされている地域を国際データベースに登録する取り組み。
- *³ 自然の損失と利益を定量化し取引する市場。
オフィス環境と、生物多様性を学ぶために必要な環境をセットで整える
──厳格なルールがない日本で、具体的に、企業や私たちは何をすべきでしょうか?
田中 「法制化されていないからやらない」ではなく、企業の自主的な行動が国の仕組みを変えると思います。しかし、生物多様性がわかりにくいこともあり、まずは、生物多様性とSDGsの関係を理解するなど、企業として生物多様性保全について学ぶ機会を設けましょう。年1回きりの会議室でのセミナーではなく、里山でのフィールド活動などを通じ、「生物多様性とは何で? 何が問題で? 何をすべきか?」を感じることが大切です。
同時に、日常的に生物多様性に触れる環境づくりを行います。オフィスや工場、倉庫の敷地や建物に「ビオトープパッケージ*⁴」を施すことで、身近で、さまざまな動物や植物とそれらの関係を実感できます。それは働く人々に潤いや癒しと活力を与えるでしょう。
- *⁴ 田中さんが都市空間での造成を推奨している生物空間。設計、造成、維持管理などのハード面と、地球環境問題としての生物多様性保全に関する教育などソフト面の双方を実現するもの。東京都市大学横浜キャンパス中庭に、そのモデルが設置されている。
──そのようなソフトとハード、両面からの取り組みが生物多様性の本質を理解することにつながるのですね。
田中 その通りです。最後に、企業の生物多様性保全活動にとても重要な生物多様性の3つ目の定義について触れておきます。1つ目は、「野生生物種」の多様性で、2つ目は「遺伝子」の多様性です。3つ目はほとんど知られていないのですが、「すみか(生息場所)」という空間やスペースの多様性で、先の2つの多様性の基盤になります。つまり、生物多様性保全には多様な空間ごとの面積の確保が重要になるのです。
最近は、TNFDレポート*⁵のように、企業活動の生物多様性に及ぼす影響を開示することが求められつつあります。今後、企業がネイチャーポジティブを目指すのであれば、サプライチェーンの各段階にある開発事業による自然損失とそれらに対するミティゲーション活動*⁶は定量評価すべきものとなり、そのアピールは社会が求めるものとなるでしょう。
実は、生物多様性オフセットが法制化されている国では既に、開発事業による自然損失は環境アセスメント手続きのなかでノーネットロスになるように検討されています。日本企業も、まずは、自社のオフィスビルの存在による生物多様性への空間的影響について考えることからはじめてみたらどうでしょうか。
- *⁵ 自然関連財務情報開示タスクフォース(Taskforce on Nature-related Financial Disclosures/TNFD)が発行する報告書のこと。TNFDは、企業や金融機関が自然関連リスクや機会に関する情報を開示するための枠組みを提供する国際的なイニシアティブ。*⁶ 悪影響を回避、最小化、代償することにより緩和する対策。
自然や他者の犠牲の上にある快適な環境を自覚する
──企業で働く私たちはどのような心構えを持つべきでしょうか。最後にメッセージをお願いします。
田中 私たちが今、生物多様性に悪影響を及ぼしながらも、冷房の効いた快適なオフィスでの仕事が可能なのはどうしてでしょうか? それは、生物多様性の損失とそれによる悪影響の間には空間的かつ時間的なズレがあるからです。現在の日本の経済活動が引き起こしている生物多様性の損失による悪影響は、私たちの代わりに、日本以外の国々ならびに日本の将来世代がかぶっているのです。
大げさに聞こえるかもしれませんが、人類の究極の問題は「地球生態系の破壊によって人類が健康に住み続けられなくなること」です。気候変動と生物多様性はそれら自体、たいへん深刻な問題ですが、究極の問題である地球生態系の健康度合いを監視する眼鏡の2種類のレンズと捉えるとわかりやすいかもしれません。
環境CSRレポートやTNFDレポートなど、各企業が生物多様性保全を開示する時代になっています。それらが新たなグリーンウォッシュに陥ることのないよう、生物多様性に対するプラス・マイナス両面の影響や開発事業のノーネットロスへの取り組みも合わせて開示するような、意味のある企業アピールが出てくることに期待したいと思います。
- <関連情報>
- 田中章(2024)ネイチャーポジティブ時代の都市開発に伴う環境アセスメントの役
割. 都市問題2024年9月号(第115巻第9号)49-65.