サンフランシスコの歴史的建物で起こすイノベーション – FOCUS Innovation Studio
サンフランシスコの歴史的建物である写真スタジオに新しく作られたコワーキングスペース、Focus Innovation Studio。そこにはコミュニティを育む様々な取り組みがあった。
Facility
サンフランシスコの重要建築でもあった老舗写真スタジオ「Adolph Gasser Photography」が2017年3月に全67年の経営、本館だった建物では実に41年に及んだ運営から幕を下ろした。その空となった建物はどうなるのか、市民や市の職員たちの注目が集まる中で、建物はサンフランシスコ市内でも類を見ない、新たな形のコワーキングスペースとなった。
建物は今も写真家Adolph Gasser氏の家族が運営するGasser Family Trust(以下Trust)の一部。閉館後、 サンフランシスコ市の商工会議所が建物を「市のランドマークとなる写真スタジオ」と承認したのち、商業不動産会社のInnovation Properties Group, Inc.(以下IPG)がTrustにコンタクトを取った。IPGはサンフランシスコのコワーキング業界に単に参入しただけでなく、Adolph Gasser Photographyの建物が長年にわたり持っていたイノベーション・スピリットを活用しながら、「ユニーク」なコワーキングスペースを始めたのである。 今回はそんなIPGが新たに開始したコワーキングスペース「Focus Innovation Studio」の中身をお伝えする。
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Focus Innovation Studioの歴史
まず、IPGがなぜFocusの建物からイノベーション・スピリットを強く感じ活用するまでに至ったか。このコワーキングプロジェクトの中核を知る上で、建物とAdolph Gasser氏の歴史は避けて通れない。
Gasser氏は著名写真家でありながら世界クラスの発明家でもあった。彼の主要な発明の1つに、第二次世界大戦時にB-29の爆撃で使用された写真技術がある。この技術を搭載したカメラは極端に寒い高度からでも鮮明な画像を撮影することができるため、アメリカ空軍が空爆用に正確な位置情報を把握する上で大きく貢献した。
この技術の他にも、「Big Eye」スポーツカメラ等Gasser氏が発明した数多くの発明品はすべて、彼自身がカメラ屋として経営したこの建物で生まれたものだという。店はサンフランシスコのアートやフォトコミュニティの間ではなくてはならないほどの存在だった。ファッションフォトグラファーのAnnie Leibovitz氏や風景フォトグラファーのAnsel Adams氏は店の常連で、Gasser氏の友人でもあったという。
Focusの誕生
このように歴史に富む建物として、またサンフランシスコの市民から愛着を受けるシンボル的建物の1つとして、IPGはFocus Innovation Studio創設プロジェクトに着手した。 プロジェクトはIPGでマネージングパートナーを務めるWarner Bonner氏とGasser Family Trustの共同によって進められた。
Focus Innovation Studioは表面上はコワーキングスペースだが、Warner氏曰く、根本的にそれ以上のものだという。市内にあるWeWork、Covo、Canopyといった他のコワーキングスペースはあくまでテック業界の起業家を対象としているが、それに比べFocusが建つ181 2nd streetという立地はアーティストやデザイナー、投資家、ファウンダーや技術者が1つのスペース内で協働しやすく、イノベーションを初期から生み出していきやすい場所にあるという。
Focusが特に強い自信を持つのは、業界の異なる起業家たちが落ち着ける場所で互いに良い刺激を与え合いながらクリエイティビティを育める環境を整えている点だ。「Trustとプロジェクトを始めた時、私たちの一番の目標はまずJohn Gassers氏(2006年のAdolph Gasser氏逝去後からのオーナー)とTrust社のために正しいことを行うことでした。そうすればうまくいくとわかっていたからです。このプロジェクトでは従来のデベロッパーや不動産会社が取るようなアプローチを取りませんでした。実際に私たちは気持ちとパッションでまず動きました」とWarner氏は語る。
Warner氏が話した「気持ちとパッション」は実際に建物を通して感じ取ることができる。
「最大限のイノベーション」のためのスペース
Gasser氏のイノベーティブなスピリットを引き継ぐ、その使命を強く持ったWarner氏とJayaranjan “J” Anthonypillai(Focusの地下フロアにある「Focus Scientific Facilities」の運営担当者)は建物の立て直しやインテリアのリモデルが許可されないという制限をくぐり抜けながら、テナントの興味を引き付けるようなスペース作りの戦略を作る必要があった。
そこで彼らが行ったのが、コワーキングスペースの醍醐味でもあるコミュニティを何よりも最重要視することだった。他の競合コワーキング会社がリモデルした現代風のミニマルな空間で最新機器を導入してテナントを引き付けるのとは逆に、Focusの戦略は同じ志を持ったクリエイティブ人材や起業家マインドを持ったコミュニティを作り上げ、彼らが失敗することを恐れない居心地の良い空間を作ることだった。
「新しい建物は昔ながらのアイディアに良いが、古い建物は新しいアイディアを産むのに良い(New buildings are good for old ideas, but old buildings are great for new ideas)」 J氏はそう語る。元のAdolph Gasser Photographyがすでにそのような内装にデザインされ失敗を恐れないように使われてきただけに、この起業家精神溢れる雰囲気はスムーズに受け継がれたはずだ。
新と古
Gasser Family Trustは建物の歴史的な外見を守ることの他に、Focusに建物が建てられた時の本来の作りを残すことをFocusに求めた。その作りとは「地上レベルを小売スペースに、2階と3階を執務スペースに、そして地下を研究室に」とAdolph Gasser氏がこだわりを見せていたものだ。
地上1階のスペースはカメラ屋の時と同じように今も公共にオープンされており、Focusと提携した地元デザイナーWILL WICKによるアムステルダムからの選りすぐりの家具とアンティークのショールームとして使用されている。
家具は、Focusに入居するテナントが利用することができ、顧客による購入も可能だ。Focusの内装は新と古(New and Old)のミックスで、様々な文化が混ざり合うサンフランシスコの特徴である「良いとこどり」の雰囲気を巧みに表現している。壁のモールディング等、カメラ屋時代からある特徴のほとんどは建物の歴史への敬意を表し手をつけないで残している。
イノベーション溢れる1階フロア
1階の小売フロアでは「Focus Retail Collective」用に一部エリアが確保されている。このエリアにはオリジナルの写真店のディスプレイケース12個が用意されており、最新ハードウェア小売店舗のb8taのように、技術者もしくはスタートアップ企業が自社製品やプロトタイプを消費者向けに展示できるようにしている。Focus内のテナントのコミュニティ活性化にも役立つ仕組みだ。
ここに製品を展示している企業には、妊娠第3期の妊婦や胎児の健康状態を観察するメディカルデバイスの開発を行うBloomLifeが含まれる。また他の企業には女性創業者2人がアートのコンサルテーションから作品のキュレーションまで行うCurate Art Groupが挙がる。彼女たちはFocusに入居しているだけでなく、他のアーティストとのコラボ作品も作成し飾りながら、実際にFocusの建物が持つアート性の高い空間演出に貢献している。
2人はさらにサンフランシスコ地元のアーティストEric Randall Morrisを呼び、彼の初の大規模作品となる壁画を建物屋上の壁にアートとして採用した。その絵は大きな反響を呼び、アトランタにあるW Hotelのプロジェクトにもつながった。他にも現在Focus内のスペースには、世界トップレベルの音楽・ファッションの写真家・ビデオグラファーの1人であるChristian Lambの作品も壁に飾られている。彼はBeyonce、Childish Gambino、Rihannaといった超有名アーティストとのフィーチャリング経験を持つ世界的著名人物だ。
そしてそのアート空間が広がる建物の2階と3階部分が執務スペースだ。各企業の必要に応じてプライベートオフィス、専用デスクやフリーアドレスデスクのオプションをフレキシブルな価格で提供している。スペースはレクチャーやイベント、大人数のミーティングにも利用可能だ。
契約に柔軟性を持たせるFocusのポリシーは、長期的な契約期間を必要とするサンフランシスコ市内の他コワーキングとはまったく異なる。このように入居しやすさを提供することは、競合との差別化になるだけでなく、入居する企業側にとっても「手頃な不動産はないか」とオフィス探しに無理に頑張ることなく、本来の事業に集中することができる安心感が生まれる。これを踏まえた上でWarner氏は次のように語る。「単にお金を払える企業ではなく、私たちが入居してほしいと思う企業を誘いやすくするんです。結果的に多くの企業からのニーズを得られますし、その中から本当に魅力ある取り組みをしているテナントを選ぶこともできます。」
スペース目的の再設定
建物を流れる67年のGasser氏の歴史を維持しながら、スペースのレイアウトはFocusのテナント用に合わせたものになっている。
もともと音声編集を行っていた小型の部屋はテナントがミーティングやコラボレートできる小型会議室になった。
建物屋上には全テナントが利用できるローイングマシンとエキササイズバイクが導入されている。建物が歴史的に古いために環境基準のLEED認証の獲得は難しいが、その代わりに人の健康への評価基準となるWELL認証の獲得に向けて動いている。
Focusは建物への敬意を表して、今日のワークスペースのあり方やその利用方法を考慮しながら建物内のスペースを意図を持ってデザインし変更していった。
ポジティブな雰囲気
Focus内部はポジティブなエネルギーで満たされている。Focusが提案するこの「従来にはない」コンセプトは入居企業に魅力的に映っているようで、Warner氏はその独自の環境を、リラックスしながらいつでもサポートが受けられる「友達といるような」仕事空間のようだと表現している。「建物を利用する皆がそれを感じています。ここは市内で『最高級な』ワークスペースという訳ではありませんが、建物の歴史もあって一番『本物の』ワークスペースで最も気持ち溢れるスペースであることは間違いありません。」
先述のCurate Art Groupの共同創業者、Rachel Mychajluk氏はFocusが持つ飽きをまったく感じさせないアットホームな雰囲気を評価した上で次のように語る。「ここにいるメンバーは皆友達で常に一緒に遊んでいるような感覚です。モチベーションの高いやる気のある人達ばかりですが皆落ち着いています。お互いにコーチングや助け合いをすることが多く、エンジニアとして1時間に800ドル稼ぐような人がここで私たちのちょっとした質問にも気前よく答えようとしてくれます。」
コワーキングスペース内の「コワーキング研究スペース」
Gasser氏は、以前フィルム化学やフィルムのハードウェアの研究場所として地下スペースを利用していた。建物の歴史を維持することにこだわったFocusは、ここでも技術者と研究者用の協業スペースとして同スペースを「Focus Scientific Facilities」の名で呼び起こした。通常、技術施設とリサーチ施設は異なるスペースレイアウトや備品が必要になることから一般的に同じ屋根の下では見られないが、Fosusはそれを実現させた。
ここではJ氏が技術者とリサーチャーのコワーキングの先導を取っている。現在13の企業が入居しており、似たマインドを持つ個人たちがコラボレートし、互いにサポートし合っているとのこと。
Focus Scientific Facilitiesはどのように運営されているのか、質問に対しJ氏はこう答えた。「このような入居企業に対し、入居の敷居を低くしています。そうしないと彼らは施設の一からの立ち上げや必要用具の準備等に資金のほとんどをかけてしまいます。ここでは、彼らは入居してすぐに開発や研究に取り組めるし、起業家やイノベーター、投資家たちのいる幅広いコミュニティへのアクセスもすぐ手に入るのです。」
スペースは技術者や研究員間の個人交流を促し、またリサーチ結果を他のテナントたちの目につきやすくすることが、J氏の狙いだという。
コストへの工夫
Focus上層階の手ごろな値段設定と合わせるために、J氏は入居のフレキシブルさを維持したまま適切な値段設定を実現させる方法を見つけなければいけなかった。そのために、質の高い中古の備品やツールを調達したという。
入居企業は共同備品といった形で自らのリサーチや実験内で使うその設備や備品、材料を互いにシェアすることができるようにしている。コミュニティ内では多くのもののシェアリングや互いに他人の興味への気遣いを必要とするため、結果的に全ての企業が道具や人件費のコストを最小限に留めようとするという。
またこの地下スペースはGasser Photographyで昔から使われていたベンチやカウンターを再利用している。このFocusの建物の独特な特徴の1つでもある、建物前にある歩道の真下に作られた、地下フロアの真っ暗な部屋もリサーチスペースに組み込まれる形で利用されている。Focusはこのように建物のありのままの特徴やスペースを新たな空間作りに利用したのだ。
コミュニティ感
Focusで活動する業種業界様々な企業たちは彼らが利用するフロアごとに分かれてはいるが、そのコミュニティ感と建物の立地は全テナントの間で特に高評価を受けている点だ。
地下のリサーチフロアに入居している、プロバイオティクス生成の研究を行う企業ZBioticsの共同創業者でCOOのStephan Lam氏に話を聞くと、彼は他のテナントと口を揃えて次のように語った。「ここは区切られたコワーキングスペースのように感じられません。地下は別で研究者たちがそれぞれ必要な活動をしているけれども、同じラボフロアにいる人たちよりも上の階にいるテナントたちと交流することが多かったりもするんです。」
実際にこの地下スペースに入居した最初の企業として、Focusは非常にユニークなスペースだとLam氏は語る。「課題は何かしら存在しますが、都市部の真ん中で設備がすべて充実したスペースにいれるという事実は素晴らしいことです。こんなスペースは市内では他に見られません。」
最後に
イノベーションに対する信念はFocus Innovation Studioに強く存在していた。きっと建物が持つ歴史やシンボルとして存在感が「サンフランシスコでは他に類を見ないコワーキングスペースを作ろう」とWarner氏を突き動かしたのだろう。決して強制的ではなく、そのやる気を彼に起こさせたのだ。
彼らがFocusで作り上げたものはイノベーターたちのコミュニティだ。彼らはすでに魅力ある建物を上手に利用し、またその建物本来の目的を維持することでその歴史を讃えながら、同時に今日のコワーキング市場からの注目を得て建物の価値を向上させることで、それを実現させたのである。Focusを歩き回っても、前Google幹部が初の起業家アートキュレーターと話していることなんて気づかない。ただそこに映るのは2人の「個人」がコラボレートし、旧友のように互いを助け合っている姿にすぎない。
Focusの魅力として、その手ごろな値段設定に、都市部の中心にあると言う立地、さらに極端にユニークなワークスペースといくつか挙げたが、最も競合との差別化ポイントになったところは彼らが持つ、アーティスト、デザイナー、投資家、技術者、他のクリエイティブ人材から成るコミュニティだ。筆者が思うに、ここで体現されたイノベーション・スピリットのエッセンスは伝説の写真家にしてこの建物も持ち主であったAdolph Gasser氏からもきっと頷きを得られるだろう。
日本語文責:Worker’s Resort編集部